「お願いがあるんだけど、座ってしてほしい。その…おしっこを。」
結婚し数か月がたったある日、妻の口からその言葉がこぼれた。
「えっ。」
突然のことにビックリして小便が漏れそうになった。
真っ先にたどり着いた感情は、おねしょをした時のような恥ずかしさだった。
心の頬を赤らめつつ、妻に聞く。
「それは、なぜ?」
果汁のように絞り出した疑問だが、これについては聞かずとも分かっていた。
「散るから。いつも私が掃除するじゃん。それとも掃除してくれる?」
「えっ、いや…散ってない…かなあ。」
散ってるんだろ。
ごまかすなよ、俺。分かってるよ。
だって俺の小便だぜ。一番知っているよ。
朝一番の寝起きの際は、二手に分かれて便器に突撃することもある。
そのうち一手が床に不時着陸することを見たことが無いと言えば嘘になる。
もちろんその場合そっと・しっかり包み込むように拭いているのだが。
「床を拭いたら汚れてるのよ。私は座ってしてるからね。散っているのはすべてあなたのもの。」
分かってる、知ってる、散ってる。もう何もいうな。追い打ちはやめてくれ。
「掃除してくれるのなら好きにしていいよ。掃除しないなら座ってしてね。」
攻撃が止んだと同時に迫られる2択。
さながらデッドオアアライブ。
掃除くらい俺だってできる。立ってすることは男の誇りでありプライドだ。
感情が日本語と英語の旅をしながら心は迷いの森の中。
簡単に座ってたまるものか…とは思う。
しかし、時に思考と言葉は相反する。
「おっけー座るわ。」
だって掃除いやだし。
こうして着座して尿、いわゆる着座尿が始まった。はじまってしまった。
それから
座って用を足すようになり早幾何の時がたった。
トイレに入る。大小どちらを催していてもまずはズボンとパンツをセットで下げる。
ここまではルーティンと化し、頭と体が慣れてしまっている。
ところが着座尿には大きな弊害がある。
おしっこ遅刻組の存在だ。
要は用を足し終え、衣類を正常形態に戻し、立ち上がる。
しかしその後パンツに舞い降りるひとしずくの贈り物。
それは、砂漠に落ちた涙が瞬く間に吸収されるように、息つく間もなく下着に吸収され何とも言えない不快感を生成する。ほんまめっちゃ不快。
なぜなら我々のモノは、その形状からも立ションの場合はあますことなく水分は便器にまっさかさまに落ちていく。
それがどうだ。座ってした場合は、モノが床と並行関係にあたるため、管の中に微量の尿が残ってしまう。
こいつらが下着を上げ、直立不動となったときに顔を出す。
「すんません、遅れました。ジワッ…」
一手遅い。一滴でこれほどまで不快になるとは。一滴の力あな恐ろし。
恐ろしすぎて古典的表現をしてしまうくらい不快。
よって、下着に格納する前には入念に揺らすことが必要となり、小便後のダンスタイムを繰り広げることとなる。シャルウィーダンス?
その変わり、得たものもある。
それは、紳士となれたことだ。
こいつはダンスで脳みそが揺さぶれおかしくなったのかと思うだろう。
しかしいたって平常運転、終点までワンマン列車だ。
試行錯誤で言葉を探したが、一言で表現するならこれに尽きるという結論に至った。
つまり紳士とは気遣いだ。
もちろん異論は認める。
着座尿の癖がついてから、我が家だけでなく、居酒屋や実家でも座るようになった。
なぜなら、今まで散っていったものがあることを認識できるようになったからだ。
今まで散っていった星の数ほどの尿の原石たちに敬意をこめ、いや正確には掃除をしてくれていた人々に敬意をこめ、俺は今日も座る。そして踊る。
一人の人間としての深みが増したのではないかとまで思える。
立ってしている人よ。
誰かと衣食住をともにしている場合は着座をおすすめします。
それでは